『メンタルの強化書』を読む。フィリピン人が幸せなのは自己責任感がないからという結論に至る

日本には、負け組になりたくなければ努力しなければならないという風潮がある。

年功序列・終身雇用が崩壊して新自由主義が台頭するようになってからは、個人の能力がより重視される競争社会になった。

競争を勝ち抜くためには努力することが必至となり、プレッシャーから精神的に追い込まれ鬱や精神疾患に陥る人が増えた。

僕自身小さい頃から努力しなければならないという価値観に取り憑かれ努力が全てだと思っていたが、『メンタルの強化書』を読んでみてそうでもないことが分かった。

そしてフィリピン人が幸せな理由は、自己責任感のなさに由来しているという結論に至った。

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努力しないのは悪いことじゃない

僕が住んでいるフィリピンには努力もせずダラダラ過ごしている人がたくさんいる。

そんな人を見るたび嫌悪感を抱いて、だからダメなんだと見下していたが、『メンタルの強化書』を読んで自分の感覚が間違っていることに気づいた。

努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもありませんし、努力しなければいけないという義務など存在しないのです。当然そこに責任など生じるものではありません。

出典:佐藤 優 『メンタルの強化書』

努力して成功した人が賞賛される社会では、落ちこぼれないようがむしゃらに頑張ることを求められる。しかし、努力しなければいけないという義務は存在しない。

日本人は努力を絶対的な価値として捉え、努力しない人は悪のような考え方に陥りがちだが、努力しないこと自体は悪いことではない。努力するしないは当人の自由であって、そこに責任は発生せず、他人に努力を強要する権利もない。

たとえば、ワープアなのはその人が努力しなかったからだという自己責任の問題にすり替えられがちだが、努力しなかったことの責任が問われる理屈はないという。

日本社会にいるとなにかと自己責任感という言葉で片付けられがちだが、このプレッシャーが真面目な気質の日本人を精神的に苦しめているのは間違いない。

自己責任感がないからこそ幸せなフィリピン人

本書を読んで面白いなと思ったのが「キリスト教は不完全な人間の責任を問わない」という章。

人間は不完全で愚かであるから、必ずどこかで失敗し、罪を犯します。その時に神に向かってrespons、すなわち弁明することは許されています。そして神の前で反省し、悔い改めることだけが求められているのです。では、人間の罪の責任はだれが負うのでしょう?それは人間を作り出した神が自ら負うのです。神の子イエスがゴルゴタの丘で自らの命を捧げたのは、まさに愚かな人間の罪を贖うためでした。そんな視点から改めて世の中を見ると、巷間言われている「自己責任論」など、なんともちっぽけでつまらないものに思えてこないでしょうか?

出典:佐藤 優 『メンタルの強化書』

この章を読んだとき、カトリックが大半を占めるフィリピン人の国民性によく当てはまるなと思った。

悪く言えば、無責任・他力本願だが、自己という枠に収まらない、神を巻き込んだ広い枠で責任というものを捉えているのかもしれない。

タガログ語でよく使われるフレーズに、バハラナ(Bahala na )というものがあるが(意味は神に任せた)、見事にこの考え方を表している。

もちろん、何でもかんでも責任を放棄して神に委ねるばっかりはよくないが、フィリピン人が貧しくても日本人より幸せそうなのはここに理由がある気がする。

日本人なら自分のせいだと言って自分を責める場面でも、フィリピン人は良くも悪くも自己責任感がないので、あんなにのんびり気楽に生きてられるんだろうなと思う。

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